分子生物学の勃興と発展により、DNAが遺伝情報を担い、遺伝子がタンパク質の発現や構造、様々な生命現象に関わっていることが明らかになってきました。これは生物学における極めて重要な発見であることは誰も否定できません。しかし、先述してきた通り、この成果が一般社会へ広まる過程で、「遺伝子が形質や病気、能力、行動まですべて決めている」という、単純化された遺伝子決定論が教義化し、遺伝子の存在が神格化されてしまいました。一方で、この教義化された遺伝子決定論を批判し、遺伝子神話に対して疑問を投げかけ、警鐘を鳴らす人々もいました。ここでは、遺伝子決定論を批判していた人たちの主張や考えについてみていきましょう▽
① 適応主義への批判
進化生物学では、生物の形質を個別に切り分け、それぞれに自然選択上の有利な理由があると説明しようとする「適応主義」に対して、古くから批判がなされてきました。例えば、グールドとレウォンティンは1979年の論文で、適応主義者を、あらゆる形質に適応上の意味を見いだし、十分な検証をせずに「もっともらしい物語」を作る傾向があるとして批判しました[34]。そして、ある形質が必ずしも自然選択によって直接つくられた適応とは限らず、以下の事象によって生じる可能性を指摘しました▽
- 別の構造や形質に伴って生じた副産物
- 生物が受け継いだ歴史的制約
- 発生上・構造上の制約
- 遺伝的浮動などの非適応的過程
彼らの指摘によれば、生物のすべての形質について遺伝子決定論で説明することはできないということになります。ただし、このレウォンティンらの適応主義批判は進化的説明に対する批判であり、個体発生における遺伝子決定論とは区別する必要があります。
② 形質は遺伝子と環境の相互作用から生まれる
詳細は後述しますが、環境の変化によって遺伝子の発現のオン・オフが切り替えられる仕組みを「エピジェネティクス」と言います。近年のエピジェネティクスの研究から、同じ遺伝子型であっても、栄養状態、温度、ホルモン、ストレス、化学物質への曝露、感染や炎症などの条件によって、遺伝子発現や表現型も変化することがわかってきました。また、異なる遺伝子型が同じ環境に対して異なる反応を示す「遺伝子・環境相互作用」も広く認められています。その仕組みの一部を担うのが、DNAメチル化、ヒストン修飾、クロマチン構造、非コードRNAなどのエピジェネティックな制御です。環境因子がこれらに影響し、遺伝子発現や表現型を長期間変化させることが、動物実験を中心に示されています[35]。例えばラットでは、母親の養育行動の違いが、子の海馬におけるグルココルチコイド受容体遺伝子のDNAメチル化と発現を変化させ、その後のストレス応答に長期的な影響を与えることが報告されています[36]。
つまり、遺伝子は絶対不変のものというわけではなく、環境との相互作用によりその発言や働き具合の変わってくるということなのです。ただし、エピジェネティクスは遺伝子から独立した別の仕組みではありません。エピジェネティックな状態を形成・維持する仕組み自体も遺伝子によってコードされており、遺伝的要因と環境要因は相互に組み合わさって働いています。
③ 人類の遺伝的多様性と集団分類の限界
レウォンティンは1972年、人類の遺伝的多様性を分析し、その大部分が伝統的に分類された人種集団間ではなく、それぞれの集団内部の個人差として存在することを示しました[37]。
その後、より多数の遺伝マーカーを調べた研究でも、遺伝的変異の93~95%は集団内にあり、大きな地理的集団間の差は3~5%程度であることが報告されています。一方で、多数の遺伝マーカーを組み合わせれば、地理的祖先に対応する集団構造を一定の精度で検出できることも示されています[38]。
もちろん、これらの研究から直接「能力や病気に遺伝的影響はない」と結論することはできません。重要なこととして正確に認識しておかなければならないのは、人種や集団の遺伝的な特徴から、個人の遺伝的性質・能力・性格・社会的価値を単純に推定することには大きな限界があるということです。
④ DNAは生命の「設計図」として働いているわけではない
レウォンティンは著書『Biology as Ideology: The Doctrine of DNA』において、DNAを生命現象の唯一かつ特権的な原因とみなす考え方を批判しました。DNAには生命を形成するうえで不可欠な情報が含まれています。しかし、DNAだけを細胞の外へ取り出してみても、生物が形成されるわけではありません。つまり、DNAが生命の「設計図」として働いているという単純な解釈は成立しないということです。
遺伝情報が実際に読み出され、形態や機能として現れるためには、
- 細胞膜や細胞小器官
- 転写因子や酵素
- クロマチン構造
- 細胞間シグナル
- 発生時の位置情報
- 栄養やホルモンなどの環境条件
などが必要です。しかも、その細胞内環境や細胞外環境自体も、それ以前の遺伝子発現や母細胞から受け継いだ性質や構造によって形成され、刻一刻と変化していくものです。したがって、DNAと環境を完全に独立した原因」として切り分けたり、生命の「設計図」であるという単純な図式として描いたりすることはできないということです。DNAをすべての完成形が一対一で描かれた建築図面というより、細胞内の条件に応じて読み方や実行結果が変化する、文脈依存的な情報体系と考える方が適切だということなのです。
⑤ 遺伝子の働きは「コンテキスト依存」
ほとんどの生命現象は、一つの遺伝子が一つの形質を単独で決めるというような単純なモデルでは説明できません。現在の分子生物学でも、多数の遺伝子と多くの調節因子や環境因子が相互に作用する「遺伝子制御ネットワーク」として生命現象を捉えようとすることが主流となっています。実際に、遺伝子の働き(遺伝子発現)は、転写因子・エンハンサー・クロマチンの状態・細胞内シグナル・組織の種類・発生段階など様々な要因によって変化するからです。さらに、同じ遺伝的変異であっても、どの組織・細胞で働くかによっても、その影響は全く異なります。GTExプロジェクトも、遺伝子発現に対する遺伝的影響が組織や細胞の文脈(コンテキスト)に依存することを示しています[39]。すなわち、遺伝子発現もその細胞や組織が置かれている“場”によって、その質も量も全く異なってくるということなのです。
以上のことからわかる重要なことは、「遺伝的影響」と「遺伝的決定」はきっちり区別すべきだということです。遺伝子は生命現象の不可欠な構成要素であることは確かですが、それだけで形質や疾患、行動を一方向的に決めているわけではありません。「生命」とは、決して遺伝子のみで決定されるものではなく、遺伝子も含めて、細胞内環境・外部環境、代謝、発生過程などが時間の中で相互作用しながら形成される動的なシステムだということです。
参考文献▽
[34] S.J. Gould, R.C. Lewontin, The spandrels of San Marco and the Panglossian paradigm: a critique of the adaptationist programme, Proceedings of the Royal Society of London. B. Biological Sciences 205 (1979) 581–598. 10.1098/rspb.1979.0086.
[35] R. Feil, M.F. Fraga, Epigenetics and the environment: emerging patterns and implications, Nature Reviews Genetics 13 (2012) 97–109. 10.1038/nrg3142.
[36] I.C. Weaver, N. Cervoni, F.A. Champagne, A.C. D'Alessio, S. Sharma, J.R. Seckl, S. Dymov, M. Szyf, M.J. Meaney, Epigenetic programming by maternal behavior, Nat Neurosci 7 (2004) 847–854. 10.1038/nn1276.
[37] R.C. Lewontin, The Apportionment of Human Diversity, in: T. Dobzhansky, M.K. Hecht, W.C. Steere (Eds.) Evolutionary Biology: Volume 6, Springer US, New York, NY, 1972, pp. 381–398.
[38] N.A. Rosenberg, J.K. Pritchard, J.L. Weber, H.M. Cann, K.K. Kidd, L.A. Zhivotovsky, M.W. Feldman, Genetic structure of human populations, Science 298 (2002) 2381–2385. 10.1126/science.1078311.
[39] T.G. Consortium, F. Aguet, S. Anand, K.G. Ardlie, S. Gabriel, G.A. Getz, A. Graubert, K. Hadley, R.E. Handsaker, K.H. Huang, S. Kashin, X. Li, D.G. MacArthur, S.R. Meier, J.L. Nedzel, D.T. Nguyen, A.V. Segrè, E. Todres, B. Balliu, A.N. Barbeira, A. Battle, R. Bonazzola, A. Brown, C.D. Brown, S.E. Castel, D.F. Conrad, D.J. Cotter, N. Cox, S. Das, O.M. de Goede, E.T. Dermitzakis, J. Einson, B.E. Engelhardt, E. Eskin, T.Y. Eulalio, N.M. Ferraro, E.D. Flynn, L. Fresard, E.R. Gamazon, D. Garrido-Martín, N.R. Gay, M.J. Gloudemans, R. Guigó, A.R. Hame, Y. He, P.J. Hoffman, F. Hormozdiari, L. Hou, H.K. Im, B. Jo, S. Kasela, M. Kellis, S. Kim-Hellmuth, A. Kwong, T. Lappalainen, X. Li, Y. Liang, S. Mangul, P. Mohammadi, S.B. Montgomery, M. Muñoz-Aguirre, D.C. Nachun, A.B. Nobel, M. Oliva, Y. Park, Y. Park, P. Parsana, A.S. Rao, F. Reverter, J.M. Rouhana, C. Sabatti, A. Saha, M. Stephens, B.E. Stranger, B.J. Strober, N.A. Teran, A. Viñuela, G. Wang, X. Wen, F. Wright, V. Wucher, Y. Zou, P.G. Ferreira, G. Li, M. Melé, E. Yeger-Lotem, M.E. Barcus, D. Bradbury, T. Krubit, J.A. McLean, L. Qi, K. Robinson, N.V. Roche, A.M. Smith, L. Sobin, D.E. Tabor, A. Undale, J. Bridge, L.E. Brigham, B.A. Foster, B.M. Gillard, R. Hasz, M. Hunter, C. Johns, M. Johnson, E. Karasik, G. Kopen, W.F. Leinweber, A. McDonald, M.T. Moser, K. Myer, K.D. Ramsey, B. Roe, S. Shad, J.A. Thomas, G. Walters, M. Washington, J. Wheeler, S.D. Jewell, D.C. Rohrer, D.R. Valley, D.A. Davis, D.C. Mash, P.A. Branton, L.K. Barker, H.M. Gardiner, M. Mosavel, L.A. Siminoff, P. Flicek, M. Haeussler, T. Juettemann, W.J. Kent, C.M. Lee, C.C. Powell, K.R. Rosenbloom, M. Ruffier, D. Sheppard, K. Taylor, S.J. Trevanion, D.R. Zerbino, N.S. Abell, J. Akey, L. Chen, K. Demanelis, J.A. Doherty, A.P. Feinberg, K.D. Hansen, P.F. Hickey, F. Jasmine, L. Jiang, R. Kaul, M.G. Kibriya, J.B. Li, Q. Li, S. Lin, S.E. Linder, B.L. Pierce, L.F. Rizzardi, A.D. Skol, K.S. Smith, M. Snyder, J. Stamatoyannopoulos, H. Tang, M. Wang, L.J. Carithers, P. Guan, S.E. Koester, A.R. Little, H.M. Moore, C.R. Nierras, A.K. Rao, J.B. Vaught, S. Volpi, The GTEx Consortium atlas of genetic regulatory effects across human tissues, Science 369 (2020) 1318–1330. doi:10.1126/science.aaz1776.

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